縁あってここ(時代と場所)に生まれてきたと思う。東洋か西洋かどっちつかずの中途半端を思わせるこの国に。先の大戦時の隣国の迷惑を顧みない空威張り的態度、敗戦後から今に至る米国に隷属する卑屈な政治的態度まで中途半端な行動に溢れているこの国に。この国を象徴する歴代首相の優柔不断さと決められなさに自分と相通ずるものを以前から感じていた。マスコミには不甲斐なさをなじる言動に溢れているが唾は全部自分の顔にかかっている。恥ずかしながらあらゆる面で自分自身とも相似形を為していると感じる。霊学では自分を知りたければ外を見よ。宇宙を知ろうと思ったら自分の中に沈潜する必要があるという。このブログタイトルにもあるとおり自分も十分過ぎるほど中途半端な生活を送る人間である。今度の日曜日(4月25日)に沖縄で超党派による十万人規模の米軍に対する県民総決起集会が開かれるという。日本が独立国なのかどうかこれでまたはっきりする。飛行機を操縦する人は常に現在地を把握していなければならないが高速で移動している為、自分の位置を把握したときには既にその地点にはいない。よくよく考えて見れば個々人の人生生活にも全く同じことが言えるだろう。硬い嘴と鋭い爪、柔らかい羽毛を持って大空を鷲座のように飛び続けることが出来るものは幸いである。墜落すれば硬い殻に覆われ、尻尾に毒針と鋏を持って地面を這い蹲る蠍座になってしまう。
2010年4月10日土曜日
カゼを読む力と目に見えないもの
外は結構強い風が吹いている。風は体感温度にもろに効いてくる。春風や秋風などのように季節の変わり目に吹くカゼは人間にカゼをよびやすい。咳や鼻水などの体調不良に風邪の字を与えるのも道理である。端午の節句に鯉幟を揚げるようになって自分も以前より風のことを考えるようになった。矢車の回る音、吹流しがなびく向き、支柱のしなり具合、鯉幟が大空に泳ぐさまは日々刻々と変化する。風には色も着いていないし形もなく目に見えないので、カゼに吹かれるものが揺れたり風切り音を立てないとどれぐらいの強さでどの向きで吹いているかよく分からないのだ。
台風中継の時に若いキャスターが嵐の中にわざわざ立っていたりすることや高速道路に吹流しがある理由もそこにある。国旗、軍旗など古今東西を問わず人間がイクサのときに旗を揚げたり幟を立てるのも風を読む力を、未だ見ぬ勝敗の行く末に未来を賭けて占っていたのだろう。かぜの“か”の字は“ちから”や“かみ”の“か”の字に通じ、かぜの“ぜ”の字は“勢力”や“軍勢”の“いきおい”に通じていると考える。俵屋宗達は見事な筆致で風神雷神図において“ちから”と“いきおい”を表している。(カミナリについてはまた別に論じたい)いにしえの人は目に見えないものに対しての想像力を豊富に持っていたのだろう。風神や西洋の伝説に登場する四精霊の一つシルフなど豊かな目に見えない世界を身近に感じていたはずだ。翻って現代の人間は目に見えないものに対していかに無防備に曝されているだろう。原発を含む核の危険性や電磁波公害、化学物質過敏症などから、情報通信が高速化し発達するのに反比例して昔より先が見えなくなったという笑えない話もある。また目に見えるものへの依存傾向として映像(TVや映画、コンピューターグラフィック=CG)関係の進歩があげられる。高精細、高画質、3Dなど枚挙に暇がない。このような現代においてこそ目に見えないものに対する心構えを養いたい。それではこの辺で風とともに去りぬ。
2010年4月8日木曜日
明日は金曜日
オカルト的宇宙論は土星紀からはじまる、次は太陽紀、月紀へと続き地球紀(現代)となる。来紀は木星紀となり金星紀の後は未だ物質化して目に見えないヴァルカン星紀へと続く。現代は曜日でいうと火曜と水曜にあたる。様々な宗教儀式の祭壇で火と水が使われるのも地球紀を表している。これは火水(ひみず)と呼び地球紀の秘密(ひみつ)へとつながる。パプテマス・シロッコが「木星帰り」と呼ばれるのも地球紀の次という観点から考えると分かりやすい。また週刊金曜日という雑誌の由来は反ファシズムのフランス人民戦線が刊行した『Vendredi(ヴァンドルディ=金曜日)』だという(命名者は哲学者・久野収)。ここにも先を見据えるという志を感じる。http://www.kinyobi.co.jp/consider/about/about_yurai.php
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